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ブログ/2016-05-12

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台湾にある慰霊の宮・台湾で神様として祀られている日本人

台湾の神社・慰霊堂

新竹県北埔郷の南天山済化宮(さいかぐう)
「台湾の靖国神社」と呼ばれています。

「軍魂霊位牌」と呼ばれるものが約3万。 
大東亜戦争で戦没した台湾籍の英霊を祀っている。

戦没者の霊を弔う施設として、日本国内においては27,863柱が靖国神社(東京)には合祀され、その後、行方不明者を含めた約33,000名が済化宮(台湾新竹県北埔郷)に祀られ、それぞれ遺族を中心に慰霊社者が訪問している。

李登輝元総統の実兄李登欽氏の位牌

台湾出身戦没者の慰霊と日本と台湾の平和と友好を願う より

参考画像

南天山済化宮

台湾南部にある嘉義県東石郷副瀬村の富安宮には、
日本人 森川清治郎巡査が、「義愛公」という神として祀られています。

森川清治郎

森川の死後の1923年、副瀬村近隣にコレラ脳炎などの伝染病が流行した。当時保正(村長)であった李九は、夢枕に森川が警察官の服装で現れ、「環境衛生に心がけ、飲食に注意し、生水、生ものを口にせぬこと」というお告げの内容を村民に告げた。村民がこれを守ったところ、伝染病の流行をまぬがれることができた。生前の森川が衛生に特に熱心であった影響と思われる。

そして「義愛公」(ぎあいこう)の尊称をつけられた森川の御神体が造られ、長く愛されるようになった。

台湾南西部の嘉義県。富安宮という廟に「義愛公」と呼ばれ、戦前の日本の警察官の姿をした神像が祀られています。この警察官の名は森川清治郎。明治初めの実在の巡査です。

明治30年(1900年)森川清治郎は、台湾南西部の台南州(今の嘉義県)の派出所に着任しました。

当時の台湾は、治安も良くなく、加えて、環境衛生は劣悪を極め、マラリヤ、ペスト、コレラ等の伝染病が発生。それに対応できる医療機関も皆無に近い状態。教育程度も低く、台南においての男子の文盲は9割でした。

森川清治郎巡査は日本より、台南の半農半漁の寒村に着任しました。

森川巡査は本来の警察官としての任務に遂行するかたわら、派出所の隣に寺子屋を設け、自費で教師を雇い村民達には無料で読み書きを教え、更に成績優秀者には、これも自費で賞品を用意するなど、教育の普及に努めました。

また自らも泥まみれになって農業技術改良の指導をし、貧しい者には物品を恵んで苦労を労わる。病人が出た際には、医者や薬の手配するなど、着任地の村の発展と人々安寧のために全身全霊を傾けました。

ある日、怪我をして海中で泣いている漁師を見付けました。森川巡査は海に飛び込みその漁師を救助し、そこから2キロほど離れた家まで背負い介抱しました。その後、救助された漁師よりも森川巡査の方が大怪我をしていた事を村びとは知り、森川巡査の献身に感泣したそうです。

森川清治郎

私心を捨てて、着任地の公に奉じ、村びとと苦楽をともにする森川巡査の生き様は、やがて全村びとの敬愛を集めるようになりました。

ある年、総督府は漁業税を制定しました。貧しい村びとたちは、税の軽減をお願いできないかと森川巡査に嘆願しました。納税は国民の義務だが、村びとたちの貧苦を誰よりも知っている森川巡査は、上層部に上申することを約束しました。

しかし、森川巡査が村びとを扇動していると曲解され、戒告処分を受けることになります。

村びとと苦楽を共にし、村びとの安寧に全身全霊で尽くした森川巡査の失望の深さはどれほどのものだったでしょうか。
明くる朝、森川巡査は拳銃で自決しました。
享年42歳。「疑われては弁解の術もない、覚悟する」と書き留められた名刺が一枚、ポケットに残されていました。

森川巡査を父のごとく慕い、敬愛していたた村びとたちは、変わり果てた姿の巡査にしがみつき号泣しました。森川巡査は、村びとたちの手によって、村の共同墓地に埋葬されました。

そして、約20年の歳月が経過します。

この地域で伝染病が大流行した大正12年のある日のこと、制服姿の警察官が夢枕に立ち、「生水や生ものに注意せよ」と告げると去って行きました。
村長は早速そのお告げを村びとに守らせると、村の伝染病はおさまったということです。

村びとたちは、自分たちの親や祖父母に心から尽くしてくれた森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていることを心から感謝しました。そして巡査の制服姿の神像を作り、富安宮という廟に「義愛公」と呼んでお祀りしました。

この「日本人の神様」は、今日もなお「観音様、媽祖様、義愛公様」と親しまれ、地元の人々の信仰を集め、線香の絶えることがありません。

義愛公の霊験はあらたかで、「不治の病」とされた病気も治すといわれ、信仰が後を絶たず、現在は神像を増やし霊験を授けるため、台湾各地に行かれているという。

義愛公

台湾南部にある嘉義東石郷副瀬村の富安宮では義愛公のご神体が今でも大切に飾られている。

併設の事務所内には森川巡査の生前の様子を語る写真や文献が大切に保存されている。
普段は他の神と共に奥の方へと飾られている義愛公のご神体も「義愛公を訪ねて来た。」と言えば事務所のスタッフがすぐに取り出してくれる。
事務所内の文献を隈なく説明してくれ、台湾人には中国語、日本人には日本語の義愛公に纏わる小冊子を無料で進呈してくれる。

義と愛に生き続ける日本人巡査より

新荘北巡聖安宮に分霊されています

新北市新荘区新樹路85巷1弄16号之1
義愛公(森川清治郎)分靈-新莊北巡聖安宮

義愛公についてこちらのページから引用いたしました

広枝音右衛門(ひろえだおとえもん)

広枝大隊長は1905(明治38)年神奈川県小田原出身。逗子開成中学、日本大学で学び、小学校教諭を経て日本統治下の台湾で警察官となり、現在の苗栗県が属していた新竹州内などで勤務した。

台湾に赴任した警察官は、治安活動のほか、台湾の人々を内地の日本人と同等の教育を施し、文化水準を引き上げる行政上の役割も担っていた。

大東亜戦争の戦線拡大により、台海軍巡査隊・総指揮官を拝命、1943年に日本海軍巡査隊隊長になり、
台湾人志願兵2000人を率いて、フィリピンのルソン島に赴任。

連合軍と日本軍の間で激しい市街戦が展開されたマニラでは、戦局が不利になり、米軍の猛攻を受けたフィリピンの日本軍司令部は、将兵に手榴弾を配り、玉砕を求めていました。

広枝隊長は命令に背き、
台湾人の命を保証するよう米軍と交渉した後、

配下の台湾志願兵に、
「行けるところまで行け」との言葉を残して自決。

廣枝音右衛門氏

日本と台湾を考える集い 様より
戦後、なお台灣人の方々に慕われている廣枝氏はどういう人物であったのか?

部下を決して怒ったり、叱ったりせず叱るべき時は常にゆっくりと、かつ、しっかりした口調で諭していた。

戦闘中では、重傷を負った部下たちを抱き寄せ、大声で名前を呼び、目には涙をためながら励まし続け、迫撃砲弾が降り続く中、危険を顧みず5キロも離れた病院へ重傷者達を自ら護送した。

当時の警察官は単に治安維持だけではなく、民衆の教化全般まで担っていた。

極度な法治偏重主義に陥らず、慈愛を持って接し、民衆との信頼関係を築いて教化するという高度なバランス感覚が求められていた。

決して捕虜になることなど許されなかった時代で、廣枝氏は捕虜になっても「生きて帰ること」を部下たちに命令したのである。

廣枝氏最期の言葉
「いいか。お前たちは生きろ。お前たちは台湾人だ。
故郷には、お前たちの帰りを待っているお父さんやお母さん、家族がいる。俺は日本人だ。俺だけが責任を取ればいい。
どんなことをしても、お前たちは必ず生きて台湾へ帰るんだ」

広枝音右衛門と妻の位牌は、台湾の苗栗県にある獅頭山勧化堂に当時の台湾人の部下の方のはからいで永代供養されるため、祀られています。

鎮安堂 飛虎将軍廟(ひこしょうぐんびょう)

台湾台南市安南区同安路127号にある民間信仰の廟で日本軍人が神として祀られている。

1944年台湾で日本海軍の兵曹長で茨城県水戸市出身の杉浦茂峰は台湾沖航空戦に出撃。

10月12日早朝、米軍機が台南に来襲した。フィリピン攻略作戦の前哨戦として航空決戦を挑んできたのだ。
数に勝る米軍に、日本軍の零戦は苦戦を強いられた。
杉浦少尉の零戦も敵弾を受けて尾翼から出火。
機体爆発が迫る危機に見舞われた。眼下には集落が広がる。
そのまま墜落すれば、民間人に大きな被害が出る。

集落への墜落を避けようと、杉浦少尉の零戦は、いきなり機首を上げ、上昇態勢を取った。その後、杉浦少尉は、機体が空中爆発する直前、落下傘で脱出したが、米軍機の機銃掃射を浴び、機は空中爆発、機銃を受けた落下傘も破れ地面(現在の飛虎将軍廟付近)に叩きつけられ、20歳で壮絶な戦死を遂げた。

杉浦茂峰氏

当時17歳の少年であった呉省事氏(近年他界されるまで廟守を務めた)はその一部始終を目撃。
零戦が墜落した辺りを探したところ飛行士の遺体を発見。その軍靴に書かれていた“杉浦”から、後に杉浦茂峰少尉と確認された。
自らの命と引き換えに集落を救った青年パイロットを、戦争が終わっても忘れなかった。

第二次世界大戦後、村のあちこちで不思議な夢を見たという噂が広まった。白い帽子、白い服(海軍服)を着た人物が養殖池付近を徘徊するのを目撃、魚を盗みに来たものと思い追いかけるも姿を消す。ある者は夢に出てきたと話したところ同じような霊的体験をしたものが多数現れ、海尾朝皇宮の神に尋ねたところ、戦時中の戦死者の霊と言う事であった。

集落の人々はその霊は、戦火から部落を避けて戦死した飛行士の霊と判断。
その後部落の有志が集まり、1971年、12平方メートルの小さな祠(ほこら)が建立された。参拝者は絶えることなく、地元の有志が93年に約160平方メートルの廟に建て替えた。

飛虎将軍廟

霊験
廟の建造後、毎日お参りをすると稲は豊作、豚や魚の養殖も順調、町は豊かで治安も良くなり、宝くじまで当たる者も出たという。
廟は海尾集落の守り神として集落の人々の尊敬を集めている。

信者が奉納した大理石の柱には詩が刻まれ『正義』『護国』『英雄』『忠義』『大義』はすべて飛虎将軍に対する崇敬と壮絶な戦死を讃えている。

「鎮安」とは鎮邪安民の意で、「飛虎」とは戦闘機又は空を飛ぶの意である。「将軍」は神として奉られる勇士の尊称である。

飛虎将軍

戦後70年 台湾で零戦パイロット「飛虎将軍」に御輿奉納

日本軍人を神としてまつる飛虎将軍廟は、台南の地元の方が撤去の命令に抵抗、無実の罪で捕らえられた経緯もある上で撤去も免れました。現在も民間の方々が費用を出し、運営と信仰によって守られています。「飛虎将軍は自らの命を挺して集落を守った。だから今は私たちが飛虎将軍を守る。」と。

台南の飛虎将軍のある地域の小学校では、日本人杉浦茂峰であった飛虎将軍を慕い、義勇の精神を学ぶために飛虎将軍を題材にした演劇を行い、日本の「武士道」を学ぶそうです。

現代を生きる人の心・魂をやしなう慰霊。
過去を振り返り、感謝と労りの思いを伝えましょう。

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